納得研究会:神奈川台散策
納得研究会の企画で、東海道の神奈川台の地形と茶屋を検証した
午後の研究会が横浜国大で行なわれるので、その前に「横浜を納得する」べく企画された。案内役はまち研究所の重盛氏。かつて、横浜市歴史博物館の展示全体をプロデュースされた方で、神奈川宿の茶屋「さくら屋」の想定再現模型と、この土地の当時の想定模型を手がけてこられた方で、博物館・科学館の構想・基本計画・運営計画をされている。
重盛氏の案内による行程は
- 1.横浜市歴史博物館
- 江戸時代の神奈川台の地形模型と神奈川宿の茶屋「さくら屋」の模型を見学
- 2.神奈川区台町の田中家
- 旧東海道の神奈川宿そばの海に面した高台。この神奈川台の地形と料亭田中家(模型さくら屋の後身)を見学。
- 3.鶴屋町三丁目の上台橋
- 旧東海道を神奈川台から保土ヶ谷方向に下っていくと、大通りの上を渡る橋になっている。江戸時代の地形と土地開発を検証する。
- 神奈川宿
- 神奈川宿は日本橋を出て三番目の宿場町です。現在の台町あたりは、かつて神奈川湊を見下ろす景勝の地でした。この神奈川が一躍有名になったのは、安政元年(1854年)の神奈川条約締結の舞台となってからです。その四年後に結ばれた日米通商条約では神奈川が開港場と決められていましたが、後に横浜に変更されました。
- 田中家
- 神奈川宿がにぎわっていた当時から続く唯一の料亭が、文久三年(1863年)創業の田中家です。田中家の前身の旅籠「さくらや」は安藤広重の「東海道五十三次」にも描かれた由緒正しき店名です。高杉晋作やハリスなども訪れました。
- 坂本龍馬の妻「おりょう」
- 「おりょう」が田中家で働き始めたのは明治7年。勝海舟の紹介で働いていたと伝えられています。英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は、外国人の接待に重宝されていました。
横浜市歴史博物館の地形模型によると、青木橋から浅間下の環状1号線から横浜駅方面は海だった。この環状1号から北側が急斜面で丘になっているが、旧東海道は神奈川宿(現在の京急神奈川駅付近)からこの丘(現在の台町)の上を通って保土ヶ谷方面に抜けていたことが分かった。丘の上で海の展望が良いので、茶屋が軒を成していたのだ。
展示物の画像を紹介できないのが残念ですが、音声解説付きのさくら屋の模型は一見の価値あり。興味のあられる方はご見学を。
横浜市歴史博物館の「さくら屋」の模型の説明によると
茶屋「桜屋」と東海道の旅人たち
神奈川宿の台町は、かつては海に面した高いところにあり、神奈川から本牧までの海をみわたせる景勝の地でした。そのため、台町には旅人が休む茶屋が多くありました。桜屋もこの茶屋の一つで、東海道を往来する旅人や、江戸からの行楽客でにぎわいました。桜屋の位置は今の料亭田中家あたりといわれています。
当時の絵入の書物である「金川砂子」や「江戸名所図会」、また神奈川宿を題材にした浮世絵には、桜屋が描かれています
市営地下鉄ブルーラインで、センター北駅から横浜駅に移動。ライオンでランチを取ってから散策開始。
丘の上を環状1号と並行に走る旧東海道に急階段を登って出ると、散策の案内図があった。
神奈川区のサイトにこの地区の案内が紹介されているが、残念だが今回の散策目的については触れられていない。写真の案内図にも使われている散策案内図で確認すると、台町の茶屋~関門跡~上台橋が今回の移動範囲になる。
「文久三年 田中家」の看板の料亭にたどり着く。今でこそビルに囲まれているが、ここから南に海が広がる眺望は素晴らしかっただろうと想像する。
「神奈川宿」の観光案内によると
田中家から、旧東海道を西に戻り、上台橋にて。伸びる道路が下ってきた旧東海道。
この橋の下には、市営地下鉄が下を走る鶴屋町3丁目から横浜駅に向かう大通りが通っている。一見、この橋が後からできたように思えるが、旧東海道ということを考えると、丘の一部を切り崩して大通りを作り、丘の上にあった旧東海道を橋として残したということだろう。
博物館で予備知識を得て、現地踏査するというフィールドワーク。歴史に素人の私でも十分堪能することができました。案内役の重盛さんと、企画をした有元先生に感謝!
■後記:悠々人の日本写真紀行の旧東海道五十三次ぶらり徒歩の旅(9)に、このルートの説明がありました。
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